2008.04.17

平文(ヘボン)さん (3)

Waeigorinhebon  と言うのは、キリスト教の宣教師が本来の使命で日本に来たのであって、医術はその一助にすぎないと言う強い信念が彼にはあった。日本人には、無料でも治療はするが、外国人には一切治療を拒んでいる。「生麦事件」での治療は、彼にとっては特別だった違いない。

 その医者としての腕は、素晴らしく、多くの人々を診察している。大名までが診察に来たというから凄い。当時の漢方医や蘭方医がやっかみ、危篤状態の重病人を送り込んだという話もある。

 また、日本語を覚えるのに苦心している。治療に来た人からの話を書き写し辞書を作っている。
 それが有名な「和英語林集成」である。始めての本格的な和英辞典ではないだろうか。
 しかもその編集者の名前が「美国平文」になっている。その後、「新約聖書約翰傳福音書」を完成させている。当時の日本と世界を身近にさせたヘボンは、日本にとって偉大な貢献者である。

 ヘボンの人となりは、温厚で思いやりのある性格、家庭を大事にして、異国人が日本に来るとヘボンの住む「成仏寺」に立ち寄り、心を和ませたと言われている。
 しかし、その反面、子供には不幸が続き、成長した息子も、父ヘボンの後を継がず貿易関連の会社に勤めたので、悲しがった様である。
 ヘボンの活躍を支えたのは、妻のクララがいたからだと思う。彼女も当時、英語塾の手助けをしている。晩年の彼女は、成仏寺にいたころ刺客にこん棒で殴られた事がもとで、精神的に悩まされたという。日本人の一子孫として申し訳なく思う。それにもめげず、幕末維新のご先祖たちに多くのことを教えてくれたヘボンご夫妻に感謝して、この項を終わる。

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画像は、京都外国語大学付属図書館よりお借りしました。

 参考資料
   「ヘボンの生涯と日本語」望月洋子著(新潮社)
    ヘボン博士の記憶その2
    ローマ字のヘボンさん…?
     ヘボン ~「和英語林集成」にこめられた思い~
    明治学院大学ボラティアセンター

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2008.03.15

平文(ヘボン)さん (2)

 バックナンバー2005年2月21日のブログで、「生麦事件」のことについて取り上げた。
ペアトの撮った事件現場の写真、3人の男が立っている。その後ろの軒並みのある道の狭い事。島津久光一行の大名行列が通りかかる。そこへ馬に乗ったイギリス人数人(男3人女1人)がすれ違ったのである。そして事件は起こった。男3人は切られ内一人は現場近くで絶命。辛うじて横浜まで逃げ帰った男女3人は、アメリカ領事館に駆け込んだ。当時外国人医師は何人かいたようだが、その介抱にヘボンが指名された。彼は、日本滞在3年が過ぎていた。その間、優秀な外科医として又温厚な伝道師として信頼が厚かった。ヘボンの手当てで命を救われた彼らは事の顛末を領事に話す。

「ヘボンの生涯と日本語」望月洋子著によると、生麦事件の負傷者を診た人として冒頭に記されている。

「ヘボンは、この日午前中いっぱいを机にむかってすごし、同じ寺(成仏寺)に住む親友S・R・ブラウン牧師らと歓談しているところを、領事の急報で呼び出されたのであった。本覚寺(アメリカ領事館)へ駆けつけると、二人の男が血みどろのまま寝かされていた・・・・中略・・・・行列の主が薩摩藩主の後見島津久光だと聞くに及んで、ヘボンは、事態の容易ならぬことを悟らずにいられなかった。(10頁~11頁)」と書いてある。

また、「生麦事件・上巻」吉村昭著 新潮文庫には

「そのうちに神奈川宿の本覚寺のアメリカ領事館からの報告が、イギリス公使館に伝えられた。それによると、アメリカ領事館ではマーシャルとクラークを保護しているが、二人とも重傷を負い、医師ヘボンの手で外科治療をうけているという。またマーシャルは、襲った武士の大名行列の者たちの笠その他に丸に十字の紋がついていたと証言し、それによって薩摩藩の行列であることがあきらかになった。(67頁)」とヘボンを取り上げている。

その後のヘボンは、医師として、この事件については、表舞台には出てこないのである。

続く

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2008.03.13

井伊直弼(安政6年)

Ii1_2  安政6年は、幕府、庶民もブラックホールに吸い込まれるがごとく、明日が見えない暗黒の世界でうごめいていた。十二代将軍が亡くなり、十三代将軍になった家定、これまたとても将軍が勤まらぬ精神的な病を持っていたようだ。ペリー率いる黒船の襲来、そしてハリスの十三代将軍家定への謁見要請。そのような時、幕府は井伊直弼大老を中心に政治を行っていた。当時、外国人排斥つまり攘夷運動盛んな時、井伊大老は、天皇の許可なくハリスと通商条約を結んでしまった。これが引き金になって、「安政の大獄」へ進む。そして「桜田門外の変」で井伊政治は、終わる。

「井伊大老は本当に悪役だったのか」

 彼は、幕末の日本を憂いた一人である。事ある毎に、天皇に伺いを立てる幕府の不甲斐なさを地団駄していたに違いない。しかも当時の孝明天皇は攘夷に凝り固まっていたため、なかなか勅許が下りず、仕方なく独断で条約を結んでしまった。彼の心の中には、今、外国と事を構えるのは、日本の軍事力からして得策ではない事は、承知していた。

彼の心中は開国派ではなかったか。
孝明天皇は、井伊の心根も知らず、こともあろうに水戸へ攘夷の勅許を出したのである。そんなことをしたら井伊大老でなくても怒り心頭である。しかしその後の粛清のような、反対派の処罰は、一寸やり過ぎの感がある。ハリスとの通商条約は、幕府、強いては国民のためにと思って幕政を行った事だと思うが、日本にとって不平等条約であったのが、悔やまれる。

彼は、天皇と幕府を繋ぎ止める為に、そして攘夷から目を覚まさせようと公武合体論を唱え、穏やかに開国し、日本の安寧を考えていたに違いない。

井伊直弼が、もし桜田門外で暗殺されていなければ、別な開国、つまり薩長中心の開国ではなく、徳川方も入った連合政治がなされていたと思う。

続く

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画像は「井伊直弼」 幕末維新館からお借りしました。

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2008.03.08

平文(ヘボン)さん (1)

Photo 私の知ってる、ヘボンは、「ヘボン式ーローマ字」のヘボンである。子供の頃、小学校の5・6年生頃だったか、ローマ字を勉強した。外国語が学べると、ちょっと大人になった気分に優越感を覚えた、記憶がある。そのノートの表紙の裏側に、ヘボン式ローマ字一欄表が載っていた。今でもパスポートなどの発行には、自分の名や住い等をヘボン式ローマ字で記入するようになっていてヘボンという名は生き続けている。

ところが、このヘボンさん、幕末から維新にかけての日本に大変重要な役割をしていて、「幕末尋ね人」としては、避けて通れない人物なのだ。

 「ヘボンの生涯と日本語」望月洋子著 新潮社、から彼の人と成りを知ることができた。

 「ジェームス・カーティス・ヘップバーンが、神奈川に入港したのは10月19日(安政6年、陰暦9,23)のことであった。ヘップバーンというスコットランド系の姓を、彼はテノールのよく響く声でヘバーンと発音していたという。当時の日本人はその発音をうまくまねられず、「ヘボン」と訛って呼んだ。呼ばれた本人は、いやがるでも訂正するでもなく、素直に受け入れ、自ら「ヘボンでござります」と名乗り、時には「平文」と漢字で署名した。写真で見ると、固く結んだ唇のあたりに強情一徹の気がただよい、時に狷介さを見せる彼の、素直で気さくな一面であろう。(15ページ)」

とヘボンという名のいわれが記されてあった。

 ヘップバーンと言えば、「ローマの休日」の王女さまを思い出してしまうが、もしかしたらご先祖は一緒なのかも・・・・・

続く

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ヘボンの写真は、明治学院大学ボランティアセンターからお借りしました。

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2006.09.27

幕末維新の教科書、吉村昭著「生麦事件」

幕末の教科書、吉村昭著「生麦事件」

 時々、近くのブックオフにふらりとでかけて立ち読みをする。古本屋で立ち読みもおかしな話だが。そこの一角に時代小説、歴史小説のコーナーがあり、なかでも好きな幕末物が並んでいる。
 幕末、維新、開国と名のつく本やその時代に生きた人物などの本があればなるべく読むようにしている。
沢山の作家が、自分なりの幕末を浮かび上がらせている。

 幕末と言っても僅か150年前。母親が、大正5年生まれの90才で健在である。その父親(祖父)が又長命で90近くまで生きた。そうなると3代前は、確実に江戸時代になる。幕末は遠くにあるようで、実はついこの間の出来事のように思う。
 私が幕末に惹きつけられるのは、大抵の人がそうであるように、ある意味平和で260年続いた徳川幕府の終焉を阻止する武士達と薩長土の下級武士達とのほとばしる情熱の戦いではないだろうか。

 その顛末を史実に基づき如実に書き下ろしたのが、吉村昭の「生麦事件」だと思う。
 「事件の発端である文久2年(1862)から、慶応4年(1868)までは、わずか6年間にすぎない。しかしこの6年間に日本は一変した。江戸から明治へ。普通なら100年もかかるだろう変化が一挙に押し寄せたのである。激動の時代というほかはない。」と、この小説の最後に、解説として渡辺保氏が書いている。
 
 「生麦事件」は、幕末維新の歴史教科書とでも言うべき1冊である。

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2006.09.22

作家 吉村昭さんを偲ぶ

作家 吉村昭さんを偲ぶ

 平成18年7月31日、天国へ召された。自分の意志で死を選んだのだ。壮絶なガンとの戦いの末、「もう死ぬよ」と家族へ別れを告げ、自らカテーテルポートを抜いたそうだ。ある意味自決であり、家族は尊厳死として看取ったのであろう。
 彼は、現代の偉大な作家であり、歴史小説家である。
3年ほど前に古本屋で見つけた「長英逃亡」を読み、吉村さんを知った。恥ずかしい話であるが、それまで歴史小説をあまりすすんで読まなかった。
 史実に忠実で、天候、ある時はその日の時間まで記してあり、それらを時代背景にしながら、主人公が今にも私の眼前に飛び出してくるようで錯覚に誘い込まれる。そして私をその時代の目撃証言者にさせてしまう。

その後、「天狗争乱」「桜田門外ノ変」「生麦事件」と読みあさった。
 吉村さんほど史実に忠実な作家は、今後現れるだろうか。

  謹んでご冥福をお祈りします。

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ブログ再開

ブログを再開しようと思います。
 ただし今度は、「幕末尋ね人」を多方面から追究していこうと思います。
 それでは・・・・・

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2006.04.02

維新前夜

尊皇攘夷、勤王佐幕、尊譲開国、公武合体、
 これからと言っても、幕末(安政元年~)の日本が開国に向かって進んで行くなかで、必然的に現れる文言です。
 これは、現世の歴史家が、幕末を見分けやすい様に作った事だと私は思っている。当時は、そんなことを考えてる余裕があるわけがない。どの藩にしても、御身大事の日和見主義になっていて、徐々に徳川幕府の弱体化になるに連れ第二次長州征伐においては、幕府軍に加担する藩がいなくなっている。
又、天皇や朝廷より維新を為し遂げたのは、薩長土の下級武士階級の若者達のエネルギーが勝ったのは、現世歴史家の周知であろう。

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2006.01.24

ハリスの功罪

ハリスの功罪
お吉らの献身的な介護が功を奏してハリスは、快復した。
しかし、彼はそれを知ってか知らずか、幕府との「日米修好通商条約」締結の為に粉骨砕身するのである。その甲斐あってか、幕府は、ハリスと条約の締結をする。当時の日本にとって、不平等条約であった。先進国の米国と後進国の日本とでは、あまりにも不利な条約であった。しかし彼は、有利な条約の締結をしたことで、公使に昇進をし、母国米国から称賛を浴びたのである。
 ただ彼は日本を世界から置き去りにしなかった。当時しきりに日本の領土を狙っている国があった。くしくも条約の締結を世界に発信したのが、日本の領土と位置を示したのである。それは現在でも世界が基本的に認めている。ハリスの功績と言うべきか。
 その後のハリスは、帰国して悠々自適な暮らしをしたが、独身を貫いたと聞いている。お吉を忘れる事が出来なかったのか。

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2006.01.17

斉藤きちの偉大な働き

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お吉の名誉
その中に、お吉がいてハリスとのロマンスが生まれたようである。彼女は、江戸幕府から金で買われて、関係を結びながらでも、ハリスの動静を探るように指示されていたらしい。
 その時ハリスは、チフスに罹り床にふせっていたが、彼のたっての要望で、新鮮な牛乳を頼まれ、お吉は、それを集めるのに煩忙した。そして15日間ハリスに飲ませて病状の快復に努力をしている。お吉こそハリスにとって命の恩人なのである。ハリスがアメリカへ帰った後、お吉は、夷狄と関係をしたということで日本人から迫害を受ける。生きるために色々努力したが、とうとう池に身を投げてしまう。51才であった。可哀相なことをしている。日本の夜明けに貢献している女性ではお吉が、最も大きな働きをしたのではないか。明治維新から日本国に貢献した人たちが、靖国神社に祀られているという。お吉こそ靖国に祀られても良い女性ではないかと思う。
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お吉(斉藤きち)の画像
牛乳の碑
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